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  勇気と感動    2008.06.04

なんか考えさせられるよ
障害ってなんだろうなあ
あまっちょろい今の自分にちょっと活を入れたいよ!
がんばれ!
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  職業    2006.06.28
たまにはこんな話を・・・<6>

この間、タクシーの運転手さんと話をしていて考えさせられたことがあります。

タクシーの運転手が
「私はタクシーの運転手になったときに・・・」
「この職業は世の中に貢献出来る仕事じやないと思って・・・」
「自分で自分をだめにしてきた。」
「お客さんともトラブルは多いし、水揚げもあがらん。」
「家に帰ってくれば体もきつく、食事ものどを通らない。」
「そして、事故ばかり起こして・・・」
「本当にどうしようもない自分だった。」


「それで・・今はどうなんですか」とたずねたら

「今は気持ちを変えたら、タクシーの運転手にすごい生きがいを感じています。」
「タクシーには二分間乗る人もいれば、五分間乗る人も、十分間乗る人もいる。」
「たとえ、何分間かの短い、長いの違いはあったとしても、」
「その時間は乗ってきた人とのすばらしい出会いの時間なんだ。」
「その、素晴らしい大事な時間を気持ちよく乗ってもらい。」
「降りた後、その方が気持ちよく仕事をしてくれたとしたら、私はその人の仕事に間接的に貢献できているんだ」
「と本当に思うようになりました。」
「それからの私はお客様に気持ち良く乗ってもらうために、どんな近くであっても」
「にこにこして引き受けることが出来るようになりました。」
「そうすると事故も起こさなくなった。体の調子もいい。そして、自分を指名してくれるお客さんがどんどん増えました。」
「今はそういう状態なんです」



この方は、職業が変わったわけでも何でもないのです。
自分の思いを変えられたことで、仕事に対するカそのものが変わってきた。
私は「思いを変える」というのはこのことではなかろうかと思います。
与えられることを望むよりも、与えることに喜びを感じるということが、
素晴らしい自分をつくっていくことにつながるのだと思うのです。
  初月給    2006.06.28
たまにはこんな話を・・・<5>

皆さんは働き始めて始めての給料をもらった時のことを憶えてますか?
何か買い物しました?貯金しました?

私の尊敬するA先生は「初月給は親のために使え」としつこく言われます。
先生は幼いころ、熊本で日用雑貨の行商をしていた両親のリヤカーに乗って育ちました。貧しい生活でしたから、寒い日のお母さんは首にタオルを巻いていました。お父さんの夢は、白いバンを腹いっぱい食べてみたいということでした。そんな記憶が残っていたものですから、初月給をもらった先生は、
お母さんにネッカチーフを、お父さんにはトースターをプレゼントしました。
お父さんは余程嬉しかったのでしょう。
一枚一枚自分で焼く旧式のトースターをその後永年、大切に使われたそうです。

その先生の話を聞いた某信用金庫に勤める二十歳の短大卒の女性が、
初月給を親のために使って喜んでもらおうと、両親をレストランに招待しました。お母さんは前日から、美容院にセットにいったりして大喜び。


ところが、お父さんはプスッと不機嫌な顔をしてお店についてきました。
「何を怒っているの?」と尋ねたら、
「一回の晩飯ぐらいで、俺が二十年間苦労して育てたことが帳消しになると思ったら、大問違いだぞ」と言う。
「そんなこと、どうして言うの?」と思ったけど、口に出しません。
今日はめでたい日だし、お母さんは横でもうパクパク食べはじめてるし、今さら怒って帰れない。

しばらく天丼を見つめていたお父さんが、ポツリと「ビールぐらい飲んでいいか?」と言いました。
「誰がビールなんかついでやるもんか」そう思ったけれど、つがなきゃしょうがないなと思って彼女はお酌をした。
ところが、コップを差し出したお父さんの手には、二十年間勤めたセメント工場での白い粉が、びっしり。
手の中のしわと毛穴にまで詰まっていました。
それに気づいた彼女は「お父さんゴメンネ」と言いたかったけど、どうにも言葉になりませんでした。

自宅に戻ったその後、彼女がトイレに行こうとして両親の部屋の前を通りかかったら、中から話し声が聞こえる。
どうせまた、お父さんが私の悪口を言っていると思ったら、それが違うのです。

「俺も五十いくつになるけれども今日みたいにおいしい晩ご飯は初めてだった。あいつの顔を見ていたら、俺は涙があふれそうになったから、天井しか見れなかったけど、なあお前、本当にいい娘に育ったなあ」。

その瞬間彼女はそこから先に足が進みませんでした。
そのまま自分の部屋に帰って、頭から布団をかぶって「バンザイ!」と叫んで、布団の中で朝まで泣き続けました。

この話を彼女は二十五歳の結婚披露宴のあいさつでしたんだそうです。
「あの先生の一言があったから、私は今、こうやって幸せになりました」


これが、私たちが今、置き忘れてきた"情"の世界なんですね。
点数にならない。そしてお金にもならない。
しかし、それを大事にして育てていかなきゃいけないんですね。
  拍手    2006.06.28
たまにはこんな話を・・・<4>

今の世の中、平凡だとか、地味だとかが疎まれる傾向にあるようです。
しかし、本当は平凡なことを平凡に続けることほど、非凡なことはないのです。
一人ひとりが自分に与えられた役割や仕事に対して、真摯(しんし)に取り組んでいくことの大切さを今一度、考え直したいものです。

ある雑誌を読んでいたら、目分の役割をまっとうすることの素晴らしさを示した話が載っていましたので、紹介したいと思います。
「バスと赤ちゃん」という題名で、女性の方が書かれたものです。


東京にいた、今から十六年ほどの前の十二月も半ば過ぎたころのことです。
私は体調を壊し、週二回、中野坂上の病院に通院していました。
その日は今にも雪が降り出しそうな空で、とても寒い日でした。
昼近くなって、病院の診察を終え、バス停からいつものバスに乗りました。
バスは座る席はなく、私は前方の乗降口の反対側に立っていました。車内は暖房がきいて、外の寒さを忘れるほどでした。
間もなくバスは東京医科大学前に着き、そこでは多分、病院からの帰りでしょう、どっと多くの人が乗り、あっという間に満員になってしまいました。
立ち並ぶ人の熱気と暖房とで、先程の心地よさは一度になくなってしまいました。


バスが静かに走り出した時、後方から赤ちゃんの、火のついたような泣き声が聞こえました。私には、人で見えませんでしたが、ギュウギユウ詰めのバスと、人の熱気と暖房とで、小さな赤ちゃんにとっては苦しく、泣く以外に方法がなかったのだ、と思えました。泣き叫ぶ赤ちゃんを乗せて、バスは新宿に向かい走っていました。

バスが次の停留所に着いた時、何人かが降り始めました。最後の人が降りる時、後方から、「待って下さい。降ります」と若い女の人の声が聞こえました。その人は立っている人の間を、かきわけるように前の方へ進んで来ます。その時、私は、子供の泣き声がだんだん近付いて来ることで、泣いた赤ちゃんを抱いているお母さんだな、と分かりました。
そのお母さんが、運転手さんの横まで行き、お金を払おうとしますと、運転手さんは、「目的地はここですか?」と聞いています。その女性は、気の毒そうに小さな声で、「新宿までなのですが、子供が泣くので、ここで降ります」と答えました。すると運転手さんは、「ここから新宿駅まで歩いて行くのは、大変です。目的地まで乗って行って下さい」と、その女性に話しました。

そして急にマイクのスイッチを入れたかと思うと、
「皆さん!この若いお母さんは新宿まで行くのですが、赤ちゃんが泣いて、皆さんにご迷惑がかかるので、ここで降りると言っています。子供は小さい時は、泣きます。赤ちゃんは泣くのが仕事です。どうぞ皆さん、少しの時間、赤ちゃんとお母さんを一緒に乗せて行ってください」と言いました。

私はどうしていいか分からず、多分みんなもそうだったと思います。ほんの何秒かが過ぎた時、一人の拍手につられて、バスの乗客全員の拍手が返事となったのです。若いお母さんは何度も頭を下げていました。


今でもこの光景を思い出しますと、目頭が熱くなり、ジーンときます。私のとても大切な、心にしみる思い出です。
私はこの運転手さんが「私にとって、ここは大事な職場なんだ。
乗客の一人ひとりを安全に目的地まで届けることが役割なんだ」といつも心がけられているから、このような行為ができたのだと思います。
そして、その思いが乗客に通じたからこそ、拍手になってかえってきたのだと思います。
  問題解決力    2006.06.28
たまにはこんな話を・・・<3>

私は、単純な人間である。夫や子どもたちを愛しているのはもちろんだが、孫となるともうメロメロになってしまう。小さな子どもにはめっぽう弱いのである。肉体的な障害を持って生まれてきた子には、なおさらのことだ。誰にだって、生きることを楽しむ権利があると思うから。

 甥のスティービーは、HEDと呼ばれる病気のせいで、生まれつき汗腺がなかった。ちょっとの運動で体温が上がり、器官に重大なダメージを及ぼす。文字通り、「遊び」が「死」を招くのである。小さな子どもに、「手加減させる」ことほどむずかしいことはない。なぜ他の子のように遊んだり走ったりできないのか、理解できないのだから。だが、遊びもしないでいられる子どもなど、いったいどこにいるだろう?

 ある日、私は夫にこうもらした。「人間は月にまで行けるようになったっていうのに、スティービーを何とかしてやれないって法はないわ!」
 そう言ってから、私は自分の言葉にはっとした。そうだ、NASAがあるではないか。「NASAに電話してみるわ」と私はきっぱりと言った。
 夫はあきれた顔をして言った。「NASAに電話するだって? 君はごく普通の主婦なんだよ。いったい何をしようっていうんだい?」
 でも、やってみるだけの価値はあるはずだ。電話をかけると、驚いたことに、お役に立てるかもしれないという人に取り次いでもらえた。電話口の男の人は、スティービーの問題を聞いてちょっと考えてから、「クール・スーツ」のことを教えてくれた。宇宙飛行士たちが月面に着陸するときに着用したもので、これがスティービーの役に立つかもしれないというのだ。胸がわくわくした。




 しかし、うまい話には落とし穴がつきものだ。――そのスーツは何と2600ドルもしたのだ! 2600ドルなんて、絶対私たちに出せるお金ではなかった。それでも、私はどうにかそのお金を工面するつもりだった。何としてでも。
 私は行動を開始した。ケーキを焼いては売り、ガレージセールを開き、近くのスーパーの外でホットドッグとハンバーガーを売った。着々と、お金は貯まっていった。ついに私たちはクール・スーツを購入し、われらがプリンスにそれを着せた。そのとき、彼は8歳。「パパの芝刈りのお手伝いをしてもいいわよ」と言うと、ぱっと顔を輝かせた。これまでの苦労をすべて吹き飛ばしてくれる笑顔だった。つぎの瞬間、彼はさっと自転車にまたがり、喜びの翼に乗って、ビューンと歩道を走り去って行った。




 NASAは、スティービーの成長ぶりに興味を持ち、宇宙科学技術を有効活用するチャンスがあったことを喜んでくれた。そして、スティービーとクール・スーツを題材にしたドキュメンタリー番組を制作させてもらえないかと言ってきた。私たちは承諾した。
 その番組が放映されると、私はHEDを抱えた子どもたちの親たちから手紙攻め、電話攻めにあった。どの親も「どうかうちの子を助けてください」と言う。この人たちの頼みを断ることなどできるわけがない。私には、彼らのつらさが痛いほど分かったから。

 そこで、私はこの子たち全員にクール・スーツを贈るため、基金を設立して資金集めをすることにした。こうすれば、企業にも協力を呼びかけることができるのだ。私は企業という企業に片っ端から、子どもたちの生活をふたたび「人間らしいものに」してやってください、と何度も、強引に頼み込んだ。
 それが10年前のことである。スティービーも立派な若者に成長し、もうすぐ大学生になる。出かけるときは、今でもクール・スーツを着用している。彼にガールフレンドができてからは、クール・スーツをいつも手元においておかなくちゃ、と私はからかっている。

 基金のほうも順調だ。これまでに、400人以上の子どもを助けてきたが、そのひとりひとりが特殊な条件を抱え、それぞれに異なっていた。人並みの生活を送らせるためには、個別に対処しなければならなかった。
 昨年は、イギリス人の兄弟、6歳のカイルと4歳のライアンのケースに取り組んだ。このふたりは、わずかでも紫外線に当たると、ほぼ間違いなくある種の皮膚ガンを発生するXPという皮膚病を患っていた。太陽のもとで遊ぶことは決して許されず、暗い室内に閉じ込められていた。彼らには40ワットの電球の光でさえ、危険だったのである。
 ここでふたたび、NASAの宇宙科学技術の出番である。UV光線から100パーセント身を守ることのできる宇宙服を、彼らのサイズに合わせて作ってくれたのだ。男の子たちは、生まれて初めて日中の外出をした――ディズニー・ワールドへ! ふたりの顔は、その日彼らがさんさんと浴びた日の光に負けないくらい輝いていた。




 そして2年前には、NASAからこんな話が舞い込んだ。この私にコンサルタントにならないかと言うのだ! 大学も出ていない、ただの主婦であり、おばあちゃんであるこの私に。しかし、先方は大まじめだった。以前からお世話になっていたカロウェイ氏が、私にはエンジニア魂があると言うのだ。彼によれば、私の問題へのアプローチ方法は、彼がそれまでに研究してきた他の方法と同じくらい有効なのだそうだ。
 彼は言った。「もし学生時代にこのことが分かっていたら、きっと今ごろあなたはここで宇宙開発プログラムの仕事をしていたでしょう。NASAでは、いい人材は必ず用いられますからね」
 私にはその理屈はよく分からなかったけれど、確かに何か問題が起きると、私のうちの何かが大声ではっきりと、こう叫ぶのである。「私にはできる!」と。たとえ、やっかいなことになろうと、気をくじかれようと、私の内なる声が「まだあきらめちゃだめ!」と言うのだ。
 ここまできたら、もう決して止められないことは分かっていた。――この子たちを、私以外の誰が守ってあげられるだろう。彼らの病気は、あまりにも特殊で、あまりにも知られていないから。

 すべてが、1本の電話から始まった。私はスティービーの苦しみを見かねて、NASAに救いの道を求めた。でも当のNASAだってその時は、病気の子どもたちに子どもらしい生活をさせてあげる鍵を自分たちが握っていたとは夢にも知らなかったのである。――遊んだり、走ったり、外の空気を吸ったりという……。
 ただの主婦であり、母親であり、おばあちゃんである私に、――NASAのコンサルタントという肩書きが加わった今、私は自分がこの仕事をするために遣わされたのだという思いを新たにする。子どもたちひとりひとりの生活を改善することこそ、私の使命なのだ。

suit.jpg


さといも読後情報:HEDによる紫外線防護服は現在は無料にてNASAから供給されている。NPOにより協会が設立されて全世界に供給可能となっている。
  赤い靴物語    2006.06.28
たまにはこんな話を・・・<2>


赤い靴はいてた・・・あの子は実在していた・・・

♪ 赤い靴 はいてた 女の子・・・

の名前は、岩崎きみ という。
明治35年(1902年)7月15日、日本平のふもと静岡県旧不二見(ふじみ)村、( その後清水市 [ 2003年3月まで ] 、 2003年4月より静岡市と合併し新「静岡市」 )に生まれた。父親は分からない。つまり私生児だったのだ。

母の岩崎かよはその時、18才。すでに両親はなかった。
かばってくれる身内もなく、周囲は白い目を向けた。

そんな目に耐(た)え切れず、かよは2才のきみを抱いて逃げるように遠い北海道、函館に移り住んだ。

そこで駅前の土産(みやげ)店につとめながら、細々(ほそぼそ)ときみを育てていた。そんな頃かよは、鈴木志郎という青年と知り合い、結婚した。

しばらくして、夫の鈴木の元に、
「開拓農場に入植しないか・・・」と、仲間から声がかかった。

社会主義とキリスト教の思想に支えられた「平民社」という結社に賛同していた鈴木は、新しい大地を切り開き、農業の基盤(きばん)を作り出す平民農場開拓の一員として参加した。

しかし、かよには気がかりなことがあった。
”そんな過酷(かこく)な未開地に、幼いきみを連れて行って、大丈夫だろうか?”ということである。

しかし、偶然にもアメリカ人で宣教師であるチャールズ・ヒュエット夫妻が養女を探していることを知る。

”この子の将来のためには養女に出そう”いや
”やっぱり手放せない、この子があまりにもふびんだ”
 かよの気持ちはどうどう巡りだった。

しかし、娘の幸せを思い泣く泣くきみを宣教師夫妻に託したのである。

♪ 異人さんに 連れられて行っちゃった・・・

          雨情との同居

明治38年(1905年)春、鈴木志郎とかよは平民農場開拓団の一員として、夢の理想郷つくりのために北海道虻田(あぶた)郡 真狩(まつかり)村、現在の留寿都(るすつ)村に入植した。有珠山に程近い村である。
原始林におおわれた地での開拓は、想像をはるかに超えた厳しさだった。
静岡から呼び寄せたかよの弟、辰蔵(たつぞう)は過酷(かこく)な労働のなかで病死した。開拓小屋も火事で失った。わずか2年後、夢の農場開拓団は解散した。
失意のうちに夫妻は札幌に引き揚げた。
苦労の末、志郎はやっとの思いで北鳴(ほくめい)新聞社に職を見つける。
同じ頃の入社に野口雨情(のぐちうじょう)がいた。
それも一軒家を二つの家族で借りて、同じ屋根の下に暮らした仲でもあったのだ。

かよは、同居人の雨情夫妻にきみのことを話した。
今頃、きみはアメリカで幸せに暮らしているのだろうか?

雨情は、後にこの「赤い靴」をしたためるのである。

♪ 今では 青い目になっちゃって 異人さんのお国にいるんだろう・・・
♪ 異人さんに連れられて・・・

     行っていなかったのである。



この事実が判明したのは、昭和54年(1979年)になってからである。

北海道テレビのドキュメント番組 「赤い靴はいてた女の子」 の放映によってだ。
それは、昭和48年(1973年)、北海道新聞社への投書がきっかけだった。

投書の主は、岡その。 こう書かれていた。

「私が生まれた10年も前に日本を去った姉。
 いまとなっては、顔も姿もしのぶよしもありませんが、
 まぶたを閉じると赤い靴をはいた4才の女の子が、
 背の高い青い目の異人さんに手を引かれて、
 横浜の港から船に乗ってゆく姿が目に浮かびます。
 この姉こそ後年、野口雨情が ”赤い靴” に書いた女の子なのです」

岡は、きみの義理の妹。
つまり後に鈴木と、かよの間にできた子供だったのだ。

その妹が、
「異人さんに 連れられていっちゃった・・・
姉を探してほしい、生きているなら会ってみたい」
との思いからの投書であった。

北海道テレビの菊池寛(きくちひろし)プロデューサ(当時/現常務取締役)は北海道から横浜、静岡、青森、東京、果てはアメリカまで足をのばし、きみちゃんを探し続けた。
そして、、、、

かよと別れたきみは、
ヒュエット夫妻とともに幸福な暮らしを始めた。
夫妻はわが子のように可愛がった。

そんなある日、きみに病魔が忍び寄った。
病名は当時不治の病といわれた結核だった。

そんなさ中、夫妻に帰国命令が出された。
夫妻は困惑(こんわく)した。すでにきみの体は、アメリカへの長旅に耐えるだけの体力はなかったのである。

やむなく、夫妻は東京麻布十番にあった同じメソジスト教会の孤児院(こじいん)に、預けることにした。

二度までも親に捨てられた格好で、恋しい母に再び会うことなく、
♪ 横浜のはとばから 船に・・・乗ることもなく、わずか9才で淋(さび)しく命を閉じたのである。

明治44年(1911年)9月15日のことであった。
この調査が波紋となり、ゆかりの各地に 「赤い靴」 の像が建てられていく。

昭和54年(1979年)11月
横浜港をながめる山下公園に最初の像が建てられる。

昭和61年(1986年)
「さぞかし、きみちゃんも、それにお母さんも会いたかったことでしょう」 と生誕地の日本平山頂にきみとかよの像が建てられ、81年ぶりの対面となった。

平成元年(1989年)
亡くなった地、麻布十番の商店街には、きみちゃんの像が造られ、
除幕式(じょまくしき)の日の夕方、気づくときみちゃんの像の足元に何枚かの硬貨が置かれていた。
赤い靴の女の子


童謡『赤い靴』(あかいくつ)
1922年(大正11年)
野口雨情作詞・本居長世作曲

赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える


  モンロヴィア行きの列車    2006.06.28
たまにはこんな話を・・・<1>

太平洋戦争が終わって間もないころ、ある女性が単身ニュ-ヨ-クに留学しました。
ところが、人種差別と戦争の余波で精神的重圧が重なり、肺結核にかかってしまったのです。医者に「すぐに手術を受けなければ、手遅れになる。モンロヴィアにアメリカ1のサナトリウムがあるから、そこに行きなさい。」と言われましたが、そんな旅費なんてありません。しかし、留学生仲間がカンパしてくれ、自分達の食べる分も減らし分け与え、治療費は後で日本から送ってもらう約束を取り付けて、彼女は旅立つことになりました。


巨大なアメリカ大陸を東から西への特急列車、五泊車中で過ごす長旅、病人にとっては苛酷な旅です。まして彼女はお金もなかったのです。
彼女の持参した食料も三日でなくなり、車掌さんにジュ-スを頼みました。車掌さんは彼女をジ-ッと見て「あんたは病気だね?どこが悪い?」と尋ね、ジュ-スを持ってきて「お金はいらないよ」と言い立ち去りました。
あくる日の朝、またジュ-スとサンドウィッチをもってきて「お金はいらないよ」とただ一言。
その後で、「どこに行く?」と聞かれたので、終点のロサンゼルスからしばらくバスに乗ってモンロヴィアの病院へ行くと彼女は告げました。
彼女が乗っている列車は、あくる日の夕刻に終点のロサンゼルスに着く予定でした。
すると突然、アナウンスで「皆様、この列車にモンロヴィアの病院へ行く、日本人留学生が乗っています。ワシントン鉄道省に連絡し、会議したところ、臨時停車せよということになりましたので、明日一番に停車するのはロスではなく、モンロヴィアです。」と流れました。その夜、車掌さんはたくさんの重い荷物を手早くまとめ、降車口に運んで下さったそうです。
夜明けとともにモンロウ゛ィアに到着すると、車椅子が用意されていました。
そして、列車の窓という窓から、いろんな人が!名刺や電話番号、住所を書いたメモ、何十ドルかの札が投げられ、「必ず治るよ、頑張って!困ったら、連絡しなさい。」口々にそんな言葉が贈られました。
彼女は涙があふれ、視界が見えなくなり、いつまでも列車を見送ったそうです。
闘病生活の三年間、見舞い客が絶えることなくきてくれたそうです。
見舞い客とは、列車で一緒になった人々でした。
さらに、莫大な手術、入院費用は、誰かの手によって、支払われていたそうです。

さといも読後談:この話は、心理学研究所の愛原由子さんが書かれていた話です。今も心理学者として彼女は活躍されています。もちろんこの物語の本人です。
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